私は「リベラル保守」の政治家を目指します❗
政治は本来、国民の幸せを第一と考えなくてはなりません。
でも、今の政治はどうでしょうか?
こんな風に見えていませんか?
選挙のための政治活動。
もうひとつに、
既得特権を肥えさせ、その生き血を吸いくらい自らの肉とする。
私はたくさんの失敗をし、家族だけでなくまわりの方にも心配やご迷惑をかけてしまいました。
それでも今、家業の銭湯は、日々、こんなボロボロの風呂屋にも笑顔を運んでくれるたくさんのお客さまに支えられています。
家にはちゃんとお風呂のあるお客さまばかりです。
そんな心優しい人たちが苦しんだり悲しんだりしている姿を見たくありません。
東日本大震災で私は様々な経験をし、特に福島では同じ日本人から受ける風評被害にも笑顔絶やさず、懸命に汗する方々を大勢見てきました。恨み妬み嫉みは一切感じませんでした。
むしろ、そんな気持ちを持っていたのは風評被害を与えた人でもなく、ボランティアをする人の中に見ました。
こんな社会じゃいけない❗
頑張った分、苦労した分、懸命に働いた分、ちゃんと報われる社会をつくらなきゃと強く感じました。
その思いの中で、私はこの記事のテーマにした「リベラル保守」の思想を地で行く政治家と出会うことが出来ました。
その真髄を学ぶべく、選挙や政治活動を「支える」側の思いや実働よりまず得ようと今、活動しています。
あと2年、残された時間はあまりにも少ないですが、恩返しのためにも統一地方選挙で勝ち抜けるよう成長したいと思います。
風呂屋も私も、もっと愛し愛される存在を目指します❗
「リベラル保守」について
引用記事です。
価値観の多様性を認めるという意味で「リベラル」を再定義し、「リベラル保守」の政治家を目指していることは、このブログでも折に触れ書いてきました。
中島岳志の近著、「『リベラル保守』宣言」を読んで、我が意を得たりとの思いを深めました。
中島によれば、「保守主義とは、人間の不完全性を直視し、その能力の限界を謙虚に受け止める。
したがって、過去の制度は不完全と考えるので『復古主義』は取らない。当然、現在の社会も不完全なので、『反動主義』でもない。保守は社会変化に応じた漸進的改革を目指す。」
また、「世界観を異にする人々が、違いを超えて同意できる原理こそがリベラルの名に値する。
リベラルには『自由』とともに『寛容』という意味がある。特定の歴史の中で形成された寛容と伝統の中にリベラルの正統性がある。」とも述べています。
その意味で、私は価値観の多様性を認める寛容な保守政治家でありたいと思います。
左翼思想は、「人間の理性によって理想社会が実現できる」ことが前提です。共産主義やファシズムの全体主義はそこから出発しています。それが不可能なことは歴史が証明しました。
保守主義は、「人間の知性や理性を超えたものに価値を見出します。社会的経験知、良識、伝統、慣習、そして宗教。」
保守政治家は、共同体や地域コミュニティ―の中で、「自分が一定の役割を演じ、社会的に意味ある存在であるという認識を持てる」個人を復活させます。すべての人に居場所と出番を与えることが保守政治家の仕事です。
加藤紘一元代議士は、「地域の中で責任を果たしている人に支えられるのがリベラルの強さだ。」と自著「強いリベラル」で定義されています。
中島は、こうも述べています。「保守が守るべきナショナリズムは、国民が自らの社会的役割を認識し、責任と主体性をもってトポス(場所)を引き受けるところから生まれる。
ナショナリズムを排外的な意識へと先鋭化させるのではなく、国家によるナショナル・ミニマムの保障と再配分の強化によって国民への責任を果たさせることに使うべきだ。」と。
私も、日本のナショナリズムを認めるならば、隣国のナショナリズムも等しく認めるのが保守政治家だと思います。
明治4年に日露間で、樺太の国境策定をめぐる対立が起きた時、明治天皇は全権代表の副島種臣に
「両国の国民が将来にわたって友好な関係を結び、幸福になれるように解決すべし。」
との趣旨の命令を発しています。
リベラルな保守政治の模範とすべきだと考えます。
今後、論考を深めながら、価値観の多様性を認める寛容な保守政治の勢力を形成していきます。
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